
雨がやんだ。
長い雨季がやっと終わり、カナダ南西部に、あの突き抜けるような青い空がまた帰って来た。
僕は一人、機材を抱え森へと入って行く。
雪解け水で勢いの増した小川が、轟々と唸りをあげて僕を出迎えてくれる。
足元はぬかるみ、木陰はまだまだ肌寒い。
・・・でも、そんな事、もう気にならない。
僕は辺りを見渡してから大きく息を吸い込み、それから静かに吐き出した・・・ふ〜っ・・・昨日までとはどこか違う初夏の匂いがする。
力強さを取り戻し始めた陽の日差しが、新緑の葉をキラキラと輝かせ、僕の気持ちを弾ませてくれる。重いはずの機材も、今はもう重みを感じない。
しばらく歩くと、小川の側に残された小さな水溜りを見つけた。
腰を屈めてそっと覗き込む・・・水面には新緑の葉が嬉しそうに踊りながら映り込んでいた。
夏はもう直ぐそこまで来てるんだ。
「お前も嬉しいのか?・・・」
僕が声をかけると、アメンボがぴょんとジャンプをして、波紋で大きな丸を描いてくれた。
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花見が嫌いだ!・・・
どれくらいって・・・かなり嫌いだ。
いや、はっきり言って、大嫌いだ。
僕がまだ日本に住んでいた頃、春になるといつも不思議に思っていた。
「花見」って、いったい何なんだろう?
桜の木の下に皆が一時に集まって、どんちゃん、どんちゃか、大騒ぎを繰り返す。
良い場所を確保する為には、何時間も前から場所取りを開始する。・・・いや、何時間なんてもんじゃない、ブルーシートを敷き詰め、荷物を置いて何日も陣取る人達もいる。
わざわざ場所取りの為だけにアルバイトの学生を雇ったり、新入社員の最初の仕事が花見の場所取りだったりもする。
それほど桜が好きなのか?
でも、花見が始まっても・・・だーれも桜なんて見ちゃいない。
お酒飲んで大騒ぎしてるだけ。見てるのは花ではなく、真っ赤になった鼻だけだ。
次の日、「桜はどうだった?」なんて聞いてみても、どーせ何も覚えちゃいないんだ。
お酒も飲まない。タバコも吸わない。がやがやした人込みも苦手な僕にとって、この日本式の花見は、大嫌いな春の行事だった。
カナダに移住して13回目の春・・・13回目の桜の季節がやってきた。
カナダでは、公共の場での飲酒は禁じられている。
当然、公園やビーチなどで昼間から酒飲んで大騒ぎなんて事は許されない。
酒好きの人にはとても住み辛い国、そして写真好きにはとても住み良い国。
春風に吹かれながら、のんびりと桜の撮影をする事が出来、疲れたら桜の木の下に腰をおろしてのんびりくつろぐ事が出来る。
ここには、あたり一面に敷き詰められたブルーシートも、大騒ぎするような酔っ払いもいない。
芝生の上に寝転がり、青空をバックにほんのりと色づいた桜を見上げる事の出来るカナダの花見が、僕はとても気に入っている。
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ふ〜っ・・・
大きくため息をつき、ゆっくりと腰を下す。
重たい機材を抱え、何時間も山道を歩いた後に見つけた高原の花畑。
僕は必ず腰を下し、しばらくの間のんびりと辺りを見渡してみる。
「歩き疲れたから?」
・・・当然それも一つの理由だが、それだけじゃない。
普段の自分から目線を変えてみるんだ・・・・時には大の字になって寝転がり、流れていく雲を見上げてみるのも悪くない。
それまで見えなかった物が見え、感じなかった物がひしひしと伝わってくる。
草花と同化し、体中が大地に溶け込んで行くような、不思議な感覚に包まれる。
立っていた時の目線からでは全く気付かなかった足元の小さな草花、水滴、昆虫、石・・・見過ごしてしまいそうな些細な風景の中から、どんどん新しい発見が飛び込んで来る。
僕は植物園やチユーリップフェスティバル等へもよく出かけて行く。
だがそこには、足を止め、腰を屈めて小さな花一輪を覗き込もうとする人はほとんどいない。
人の波に流され、予め用意されたピクチャースポットで記念写真を撮ると、また足早に次の場所へと移動を繰り返す。
多くの人は、《植物園》を見にやって来て、《花畑》だけを見て帰って行く。
家の中で、一輪挿しに生けられた花には、「綺麗だね〜」「この花素敵ね〜」と声をかけるのに、大きな花畑の中で、足元に咲く小さな花一輪を覗き込む人はほとんどいない。
写真家の仕事の一つは、そんな小さな一輪の花を、見つけてあげることかもしれない・・・
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今、僕達はモコモコした白い世界を擦り抜けて進んでいる
そう・・・何も見えやしない・・・
遠くからは、あんなにも柔らかく、優しそうに見えていたのに
無断で近づいた僕達が見たのは、まるで白い炎のように渦を巻き、恐ろしい顔で襲い掛かってくる彼の姿だった。
僕達は一瞬の戸惑いの後、ゆっくり彼の中へと吸い込まれて行った。
全く・・・何も見えやしない・・・
白くて爽やかに見えていた彼の姿は、もうここには無い。
中はとても薄暗く、四方八方から伸びた薄気味悪い手が、僕達の機体をガタガタ、ガタガタと容赦なく揺さぶり続ける。まるで行く手を邪魔するように。
ほんとに・・・何も見えやしない・・・
僕達は無言のまま、汗ばんだ手でしっかりとシートベルトを握り締めていた。
窓の外に在るべき物は何も無く、ただどんよりとした乳白色の世界だけが後方へと流れては消えて行く。
人は視界を失う事で恐怖を覚え、揺さぶられ続ける事でその恐怖は増幅していく。「早くここから出してくれ、もう充分だ」・・・だが、そんな言葉さえ、今は誰も発しない。
ふーっ・・・何も見えやしない・・・
僕がまたそう呟いた次の瞬間、薄暗く纏わり付いていた彼の姿が豹変し、眩い白い姿に変わっていた。
見えた・・・
目の前で突然大きく開かれた扉。
僕達をいじめ続けた分厚い雲の扉を抜けた先には、果てしなく続く北の大地がどこまでも広がっていた。
たっぷり積もっていた雪を溶かす力強い大地の息吹が、今そこから強烈に伝わって来る。
飛行機の小さな窓の中に広がる大きな世界に、僕達は直ぐに魅了され引き込まれていた。
すっかり揺れの収まったシートに、ゆったりともたれかかり、壮大な景色を眺めるうちに、僕達の凍りかけた心もまた、少しずつ溶けていくような気がした。
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ずしっ・・・ずしっ・・・
ゆっくり、一歩ずつ、僕は森の中を進んでいた。
何も急ぐ事は無い、彼は目覚め、今年もちゃんとこの森に帰って来た。
ずしっ・・・ずしっ・・・・ずしっ・・・
もうそこには、さくさくした落ち葉の感触はなく、ざくざくした雪の感触もない。
あるのは、ずしっり、しっかりとした大地の感触だ。
でも彼は、夏のようなカチカチに固まった大地でも、冬のようにグチュグチュ、ツルツルした大地でもない。
僕の重みを柔らかく受け止め、しっかりとつかまえていてくれる、彼にはそんな優しさがある。
僕は彼が帰って来た事を足の裏から知り、広がっていく彼を体全体で感じていた。
ずしっ・・・ずしっ・・・ずしっ・・・
「ふ〜っ」
切り株に腰を下し、大きく息を吐き出す。
歩いていると気づかないほどの小さな風が、今はとても心地良い。
頭上がざわめいている事に気づき、ふと視線を向けると、そこには・・・キラキラ輝く緑の新しい屋根が、森一面に広がっていた。
「おかえり」
僕は、《春》と言う名の《彼》に挨拶をしてから、静かにシャッターを切り始めた。
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僕達を楽しませてくれた素敵なエメラルドグリーンの湖は、堅くて冷たい冬の扉の下に、もうずっと隠れたままだった。
夏の間、彼はとても人気者だった。
多くの人達が毎日彼に挨拶にやって来て、直ぐそばに腰を下ろし、のんびりとその表情を楽しんでいた。
綺麗に空や山の姿を映し込み、いたずら者の風にはピチャピチャと音を立てて応えてあげ、太陽の温もりにキラキラ輝いて喜んでいた。そんな彼の姿を見ているだけで、僕達は皆、不思議なほど優しい気持ちになる事が出来た。
だが、秋も終わりが近づくと、エメラルドグリーンの彼は少しずつ顔色が悪くなり、やがて真っ白でカチカチの冷たい奴になってしまった。
もう風が吹いても、太陽が語りかけても、何も返事はしてくれない。
また、長い長い冬の扉を閉めてしまったのだ。
もう僕達にはどうする事もできない。一度閉まってしまった扉は、簡単には開ける事は出来ず、あとはただじっと待つしかなった。
ヒュー・・・ウゥー・・・
長く暗い冬が続き、彼に挨拶に来る人はもうほとんどいなくなった。
ビューウゥー・・・ヒュー・・・・
弱々しかった太陽が、また少しずつ元気を取り戻しはじめた頃、彼が動き始めた。
それまでどんなに押しても叩いても、踏み付けて蹴飛ばしてやってもびくともしなかった分厚い冬の扉に、今、ようやく《春》と言う名の亀裂が入り始めた。
ベキベキベキッ・・・・ガリガリ・・・グォシャーン
間近で聞いていると恐怖すら覚える凄まじい轟音を響かせ、あちこちからけたたましい《春の雄叫び》が響いて来る。
それはまるで、閉じ込められていた魔物が、深い眠りから目覚めたようにも見える。
長い間、自分を閉じ込めていた冬の扉に復讐をするかのように、彼はいつまでもいつまでも破壊活動を繰り返す。
そしてその容赦無い姿に、僕達はいつか不安を抱く・・・「もう以前の人気者の彼ではなくなったのか?」
ガリガリガリッ・・・
また大きな音が響き、薄くなった冬の扉の下から、見覚えのあるエメラルドグリーンの彼がチラッと顔を覗かせた。
「大丈夫、前のままだ」
彼の姿を見つけ、山も空も雲もみんな嬉しくなって集まって来た。
「押すな押すな・・・狭いんだから」
「みんな待ってたんだから、自分だけ映り込むんじゃないよ」
「ほらっ、並んで並んで・・・」
彼の姿は、まだまだ小さく弱々しい、でもみんなは声を揃えてこう言った・・・
おかえり・・・春の扉はもう直ぐそこだよ。
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「何をそんなに急いでるんだい?・・・」
僕は、空を見上げてそう呟いた。
冬、北国の太陽はとても恥ずかしがり屋で、気が短い。おまけに高い場所が嫌いなようだ。
遅い遅い朝陽がようやく昇り、やっと僕達を暖め始めたばかりだと言うのに・・・恥ずかしがりの彼は、山の向こうにチラッと顔を出しただけで、あまり高い場所には昇りたがらない。
北極海からの冷たくて意地悪な風にいじめられるのか、黒くて分厚い雪雲がくすぐったいのか、彼は低い位置を駆け足で通り過ぎ、もう反対側の山に隠れようとしている。
時計の針は、まだ2時だ。
森の木々が口々に文句を言い始めた・・・
「一週間も隠れてて、一体どこで何をしてたんだい」
「僕達は、ずっと寒い所で我慢してたんだぞ」
「久しぶりに顔を出したんだ、もう少し暖めておくれよ」
「雪が重くて、もう疲れたよ・・・早く溶かしてくれよ」
急ぎ足の彼は、すまなさそうにこう言った・・・
「ごめんね、でも山の向こうでもみんなが待ってるから、ゆっくりしてられないんだよ。でもね、その代わりに・・・」
彼はそう言うと、ぴかっと強く輝き、寂しかった雪原一杯に、綺麗な影絵を描いてくれた。
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